鏡に映った自分はまるで他人のようだった。
吐き気とめまい、そして平衡感覚がなくなったようなふらつき。恐怖と絶望を感じた顔は、げっそりと頰を削っているかのようだった。
このままでは絶対にあの会議室に戻れない。
「じゃあぁ、どうすればいい?」
どこかへ行ってしまおうか…
どこか遠くへ行けば楽になれるんじゃないだろうか?この苦しい場から逃れられたらそれでいい…。そんな思いが頭をよぎった僕は、未知なるどこか遠くはどこにあるかを考えた。
その時、最悪な結末が頭をよぎった。ここは二階とは言え高い場所だ。もし、飛び降りたら…
そんなことを本気で考えた。
しかし、すぐに奥さんのことが頭をよぎり、何てバカなことを考えたんだと自分を猛烈に罵倒する。それを今したらダメだ!絶対にダメだ。
エレベーターホールの暗がりで一人ソファーに座りながら考えるも、いいアイデアが浮かんでこない。どうすればあの会議室に戻らなくてもいいか。
数分しか時間が経っていないはずなのに、もう一時間近く悩んでいるように思える。それほど事は深刻だ。色んな言い訳を考えるが全く出てこない。
しかし、よく考えたら別に悪いことを企んでるんじゃないことに気づいた。そもそも、これは体調不良であってサボっているわけじゃない。
根本的なことを再確認した僕は、暗いエレベーターホールから外の空気が吸える階段の踊り場へとフラフラしながら向かった。相変わらずめまいはひどい。
踊り場から見える景色は、この田舎にしては割と賑やかだ。人通りも多く建物も多い。眼下には忙しそうに歩いているサラリーマンの姿がよく見える。
スマホを取り出し会社のアドレスを探すも、気づいたら手がわずかに震えていた。まだまだ動悸やめまいは継続中だ。
二度ほどコールが鳴りガチャリと電話を取る音がした。
「お電話ありがとうございます、〇〇社のUです」
いつも決まって電話に出るのは事務員のUさんだ。笑顔が特徴で年上の管理者や会社と取引がある外部の社員から人気がある。しかし、このUさんはとんでもない闇を持っていて、この闇がのちに僕の人生を左右することにもなる人物だ。
「もしもし、俺だけど…」
「あれ、お疲れ様。今は会議じゃないの?」
当たり前の返事に一瞬声が詰まったが冷静に答えた。
「うん、会議中なんだけど。今日はNさん休みだからいないよね?」
すると、予想外の返事が
「来てるよ。何か予定が変わったらしく、さっき出勤してきたよ、代わるね」
本来Nさんは今日が休みだ。その代わりに僕が会議へ出席しないといけなくなった経緯があることから、何で今職場にいるのか分からなかった。一瞬「いるのかよ!」と思う反面「これで何とかなる」と内心ホッとした。
「もしもし、ご苦労さん、どうした?」
こちらの身に起きている大事件のことは当然知るわけないから仕方がないけど、この呑気な返答に「本当はお前が出席する予定だったんだよ!」と恨む気持ちを抑えながら
「ちょっと体調が悪くなったみたいで、外の空気を吸いに会議を抜け出してるんです。ちょっとこのまま会議に参加するのは厳しそうなので、悪いですけど誰か代わってもらえませんか?」
僕からこういったお願いをするのはおそらく初めてなので、Nさんも相当びっくりしたようで、間髪入れずに
「分かった、とりあえず俺が行くわ。それより大丈夫?車の運転ヤバそうなら誰か迎えを出すけど」
具体的な理由を聞かずに会議を代わってくれることにびっくりしたが、いつもと様子が違うことに気づいたのだろう。運転は大丈夫なことから、ゆっくりと会社に戻ることになった。
そうと決まれば会議を行っている部屋へ行き、この決定を伝えなければならない。会社へ戻れると決まると不思議とさっきまでの激しい動悸や吐き気は緩くなっていた。
会議室に入ると、真っ先にこの会議を進行している人に説明することにした。ほとんどの出席者は僕が何度も外へ出て行っていたことに気づいてなく、突然ズンズンと前に歩み出る僕を怪訝そうな目で見ていた。
皆んなが僕を見ている。
そう思うと先ほどまでとは違った動悸が襲ってくる。しかし、この動悸は今までとは違い気持ち悪さは追従してこない。いわゆる緊張している時にあるやつだ。
先に先方が気づき、僕の顔を見ている。
「どうされましたか?」
ゴクリと唾を飲み込んだ僕は震える声を押し殺すように、こう嘘をついた。
「会社でトラブルがあったと電話がありまして…急ですが帰社させてもらいます。そのかわり暫くしたら別の者が来ますので」
皆んながこっちを見ているが僕達が話している声は聞こえていない。後ろからの視線を痛いほど感じながら話し終えると会釈をして、その場を離れた。
座っていた席に戻り、置いていた資料と鞄を持ち会議室を出ようとした時、会議に参加していた知り合いから声をかけられ
「どうした、なんかトラブル?」
「あぁ、会社でちょっとね。俺が帰らないといけなくなって…」
そう伝えると相手の返事を待つまでもなく、僕は会議室を出て行った。
外へ出た僕は周りに目もくれず、一目散に一階駐車場へと向かい階段を降りて行った。まるで、拘束され自由のきかない場所から自由を手に入れたかのような妙な高揚感も湧いてきて足取りも軽やかだった。
社用車に乗り込みエンジンをかける。
やっと自由になれる。あとは帰るだけだ…
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