”何をしたらいいのか分からない…”
そんな言葉を聞きくと世の中の大人は声をそろえて
”最近の若いもんは…これだからダメなんだ!”
そんな大人が悩んでいる若者と同じ年齢の時には結局同じようなことを言っていたはずなんです。
何ができるか?
それを考えると結局答えは出て来なくて周りのみんながやっていることを真似て行くのがデフォルトだと思うんです。でも、それが悪いことなんでしょうか?
随分前の話になりますが、学生のころの同級生に同じようなことを聞かれたことがあります。
”俺はいまやってる仕事が向いていない気がする、何もできてない”
何をもって”できてない”のかは彼の説明では分かりませんでしたが、何となく他の仕事がしたいのかな?と感じとるぐらいでした。
彼は熱い男で軽はずみな行動はしない、そんな彼が考え抜いた結果、仕事を辞めて何ができるか色んなものを見たいと言い、世界一周の旅に出かけたんです。
何ができるか探すために世界一周の旅へ
一年後に帰国した彼と会った時に聞いてみたんです。
”何か見えないものが見えたか?”
すると彼は間髪入れずに
”いや、特に何も見えなかったし変わらなかった”
でも、僕はこれでいいんだと思いますし、ある意味で正解なんだと。
他の友人や彼の元職場の同僚は単なる長めの旅行に行っただけだと冷やかしていましたが、僕は今いるある意味で安定した職を投げ出して何かに挑戦しただけで凄いことだと思って内心尊敬すらしていました。
僕みたいな石橋を叩いても渡らない、何なら誰かを歩かせてから渡るタイプの人間には、その行動自体が既に凄すぎることで。
ティム・クックのスピーチ
かの有名なApple最高経営責任者であるティム・クックが母校であるデューク大学卒業式のスピーチでこんなことを言っていました。
いつどんなときでも、我々の頭の中にあるのは、「何ができるか」ではなく、「何をすべきか」ということです。スティーブは、変化はそうやって生じると教えてくれましたし、現状に満足してはいけないと教えてくれました。
デューク大学卒業式 ティム・クックより
自分に”何ができるか”世界を見て探したかった友人は、特に何も変わらなかったと言いましたが、きっと一歩踏み出したこと(退職して世界一の旅)に意味があるんだと。
けど、こんな大胆なことを誰しもができるわけでもなく、平凡が何よりも尊いと思っている僕からすれば”何をすべきか”考える余裕は正直言ってありません。
「何ができるか」じゃなくて「何をすべきか」
ティム・クックは「何ができるか」じゃなくて「何をすべきか」と言いましたが、こう言った言葉を自問をすることで、すでに何か動き出していると僕は思っています。
決して”何をすべきか”まで考えが到達しなくても、考えることでゴールが近づいて来ているのではないでしょうか。
さいごに
何かを実行する前にはどうしても自分の能力を考えて「何ができるか?」と思ってしまいますが、それは仕方がないことだと思っています。
自分に何が求められているのか、そう自問していると自ずと「何をすべきか?」が見えてくるような気がします。